仕事の雑感

働き方の揺り戻しが始まった

2025年10月の自民党新総裁選挙で高市さんが選ばれ、その際「ライフワークバランスを捨てる」と発言されました。

このことはSNSでもいろいろな意見が出ていますが、個人的にはこの言葉を政治関係者が発言したことはとても大きい潮流の変化だと感じました。

戦後から続いていた猛烈な働き方を経て、2000年頃からはそれを抑制する動きになりました。もちろんそこには過労死や精神的な疾患などが世間的に顕在化したという世情もあります。。

しかし、その結果として誰しもが「無理して働かない」「競争社会は良くない」「お金を稼ぐだけが全てではない」…などなどいろいろなそれまでの『働くべし』という価値観へのアンチテーゼという価値観が生まれてきました。

ただ、そこから2025年に至るまでに「経済的な視点」に限っていえば、グローバルにおける競争力の低下、GDPが追い抜かれる、先端技術関連の多くで日本が勝てない状況になる…ということが起こりました。

「失われた30年」という言葉が生まれ、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は、はるか昔の話です。
結果として国内では「なんで日本は生産性が低いんだ?」「物価が上がっているのに給料が上がらない」などなどの不満がたまった時代になっていたと思います。

「仕事」という観点においては、資本主義においては基本的には競争社会です(資本主義の是非は別として)。どこまで行っても優勝劣敗ですし、適者生存です。

つまりは「他社(他者)との比較」の中で競う必要がありますし、人類は経済的な部分だけではなくあらゆる面において「よりよいものを目指す」ことで太古より進化してきたと思います。

となると、実際「そこそこでいい」「頑張らなくていい」という感覚では「他社(他者)がより頑張っていれば」競争には絶対に勝てないし、「失われた30年」の後半は「頑張らなくていい」という風潮の結果ではないのかと思ってます。

日本がそういった価値観になっている期間に、方法の是非は別にしてアメリカも中国も頑張っていたわけです。アメリカに差を広げられ、中国に追い抜かれたのは、単純に『彼らがやっていたことを日本はやっていなかったから』だけだと思います。

「頑張ること」を拒否し続け、この国際的な状況に甘んじ、給料が上がらず、国際的な競争力が下がり、国際比較の中で人件費が安い国となり「製造業における安価に作れる国」という国を目指すならば、それでもいいかもしれません(要は20年ぐらい前の中国や東南アジア諸国のような状況)。

様々な価値観を全部考慮して守るのは不可能になってきた

よく「質より量」ということが言われますが、『考えた上で』とか『無意味にやるのは無駄』という言葉が先行していて、それ自体は正しいけど、ではそれらをクリアした上で、『熟慮をして意味ある行動と思われることを実際にしていた人』はどれぐらいいたのでしょうか。

こういった「Aをするべき」という話題になると「いや、Bの観点を無視してやるべきでない」「Cの観点を無視してやってどうするの?」という意見が必ず出ます。

冒頭の高市さんの「ライフワークバランスを捨てる」というセリフにもそういった意見が出ていました。

  • ライフワークバランスを無視したらまた過労◯する人が出てくるがそれを助長するのか?
  • 国会議員としてもっと違う言葉の選び方があったんじゃないか?
  • 自分以外にもそれを強要するのは総裁としてどうなのか?

などなどです。

「ライフワークバランス」という言葉だけを取り上げるならば、ある意味においては正しいかもしれません。

しかしあのスピーチは少なくとも私は「総裁としての覚悟であり、失われた30年を取り戻すためにはそこまでやらないといけない。『適度なバランスを取る』といったお為ごかしをいっていてどうにかなる時代ではない」ことを言語化したものだと感じました。

その言葉の結果として国政がどうなるかは今後の話です。今の時点で評価するべきでもありません。
『有言不実行』だったら総裁や国会議員から落とされ、最悪無職になるのですから。逆にいえばその可能性がある以上、国会議員はちゃんとリスクテイクをしていると思っています。

また「言葉の選び方」についても、いくら国会議員でも人の子です。あらゆる方面に100%リスクヘッジをした言葉でフリートークができることを求めるべきではないと思います。「国会議員になるということは、そのケアもできて当然だ」というような声が聞こえてきそうですが、それは誰もそんな定義をしていないので、勝手な解釈で他者に責任を強制するべきではないと思っています。

逆にそれを求めるならば、全ては準備した原稿を読むしかなくなります。
仮にそれをしたら次には「原稿を読んでばかりで◯◯さんの人として部分が見えないつまらない人だ」「原稿がないと何も喋れない人だ」みたいなことをいう人が出てくるわけですから。

ですので、『どういうことをしても文句を言う人はいる』という前提に立つならば、あのセリフを自民党総裁が発言したことの意味は「時代の転換点」の象徴なのではないかと感じています。

何度もいいますが、「その言葉を発した結果は今後で判断する」ので、今の時点で政治手腕を評価するとかの意図は全くありません。

易きに流れていく世論に歯止めは効かない

僕はいまも自分が30代のころと同じ様な働き方をしているつもりです。
よく周りからは「若くないんだから無理しない方がいいよ」といわれたりしますし、それも理解しています。

ただ、無理にでもそういった働き方を維持しているのは「易きに流れ、気力と体力が落ちるのを防ぐ」意味あいが大きいです。(単純に労働時間が長い、というだけですが)

今後、絶対に体力は低下します。体力が低下すると連動して気力や感受性も低下していきます。

それが明らかにも関わらず「もう40代だから…」「50代になったんだし…」という言い訳を自分にすると、時代がまたシャカリキに働くことを求める時代になった時に付いていけず、脱落することへの怖さから「意地でも現状維持をする」ことが大きな源泉です。

体力が落ち、安穏とした仕事の仕方に身体も気持ちも慣れてしまうと、「今はここ一番、体力を振り絞って頑張らないとまずい!」みたいな時に踏ん張りが効かなくなってしまうはずなんです。

一昔前、「ゆとり教育」が無かったことにされましたが、ではその「ゆとり教育」世代の人が「今までの常識はゆる過ぎたので元に戻します!」と世間にいわれ、翌日から彼らにとって前時代的な仕組みややり方に戻されたとして即応できるか?といえば(多くの場合)不可能だったのではないでしょうか?

その意味では1975年前後の生まれのいわゆる「就職氷河期世代」は延々といろいろ言われていますが、僕は「ゆとり世代のゆとり撤廃後」もなかなかハードモードなんじゃないかと思っています。

ですが、その「ゆとり時代」の真っ只中はどうだったでしょうか?
ゆとり教育はそれまでの「詰め込み教育へのアンチテーゼ」のように世間一般で称賛されていました。
そしてその風潮に同意した人もたくさんいました。「これからの教育とはこうあるべきだ!」と。 なぜならそっちの方が全体的に「楽」だから。

人は意識をしなければ必ず「楽」側に流れていきます。群衆心理がその『楽』な方に向かえば、なおさらその風潮に抑えが効かなくなります。「いいか?わるいか?」でいえば「悪い」と否定のしようがないのです。

そして「目の前の楽」に同意する方がさらに「楽」なので、それに反する動き・考え方・意見は社会悪になっていきます。

これはその渦中は別に構わないかもしれません。だって世間の大多数がそれを「よしとしている」のですから。それに従わない意見は徹底的に叩かれて潰されるので、日本のいじめ問題のように「違う意見だったとしても言わない方が良い」ですし。

と書くと、僕も『今まで言ってこなくて、今回言うならもっと早く言っておけばいいじゃないか』って思われると思いますが、『わざわざ波風を立てるメリットがなかったから言わなかった』というのが本心です。

揺り戻しが起こった時に耐えられる自分であるか?

問題なのは、この流れが変わった時です。

例えば今の日本ではインフレがつき進んでいます。しかし給料は上がらない、という状況に多くの問題が指摘されています。

ただ、これはセミナーなどでは過去も話題にしてきましたが2014年ごろに牛丼が250円になったときに「これって今後…どうなるんだろ?」と思っていました。

どういうことかというと、2000年ごろ、牛丼は並盛が400円でした。 250円に向かってどんどん安くなっていく時、確かに嬉しかったです。

しかし、一方でこうも思いました。
一体何をどう頑張れば400円の商品が250円になるのか…?

簡単です。
どこかで必ず「値引き」をしているんです。

牛丼屋の仕入れ先→仕入れ先はその先の仕入元→・・・・と続き、最後のどん詰まりまで等しく値引きを強いられていたはずです。

ということは最終的な生産者の所得は減ります。所得が減れば消費は減ります。経済は全て循環しているので、最終生産者の消費が減れば、小売店の売上が下がり、その対策としてさらに値引きをして…という悪循環になるのは明らかです。

そしてこれは「低所得者」側にとって大きな問題が出てきます。
「高所得者」も「低所得者」も「安くなる」時には何も問題はありません。

しかしこれが『インフレ側』に回ったときに大変なことになるのです。それは『低所得者が買えなくなる』ことです。一方インフレになっても「高所得者」は「買うことはできる」ので、問題は問題ですがそこまで騒がない。

これはまさに今起こっていることです。物価と給与が完全に一致しているならば、問題ないですが、経済の循環の中にはいくつかのポイントがあるので、どうしてもタイムラグが出てきてしまいます。また産業単位ではそれが反映されないところも出てきます。

この「揺り戻し」が起こった時に、変化後が『過去に比べて厳しい方に戻った』ときに大問題が起こります……

働き方も同じ事が起こるのではないかと思っています。 「無理をしない」「できる範囲でやる」といった価値観では少なくとも国際的な競争の中では勝てなくなっている。全員ではないが、諸外国でそれなりの企業にはシャカリキになって働いている人は一定数います。

シャカリキというのが「稼働時間」なのか「稼働密度」なのか「解雇を掛けた責任」なのかは色々ですので、単一なことは言えませんが、とにかく何かしらのリスクを取って働いている人がいる、ということです。

もちろん過労死的な方にいくのは絶対に避けるべきです。特に私は現在経営者ですので、それは少なくとも自社では徹底して避ける方針です。一方で2000年代の働き方が問題だったのは、以下の要因があるように感じています。

  • 高度成長時代の名残で、会社員は個々人の能力を別にして一定の無理な働き方を強要された
  • 個々人の頑張れる限界値というのを全く考慮していなかった
  • IT化によって、90年代までの仕事の速度間や密度から一気に高速・高密度になった

これらのことからいわゆる『ブラックな労働の撤廃』に進み、2018年の「働き方改革」に至ったと思います。

時代は必ず少し進化してはまた過去のやり方を繰り返しています。2000年の頃のような環境ではないですが、次に「令和版のシャカリキに働く環境への回帰」という時代が来るんじゃないか?と感じています。

では、その時に自分は「その状況に耐えられる心身であるか?」。
耐えられるようにするために、ずっとそういった時代での働き方をしてきました。もちろんそれは僕自身の身体の状態、精神の状態などを常に自分で細かくウォッチしてのことです。

心身両面での休息のあり方、運動の取り入れ方、仕事への向き合い方、趣味の持ち方、自分で自分のモチベーションを練り上げるなどなど、やれることはやってきました。

体力は確かに落ちましたし、身体も20代と比べればガタも来ているでしょう。 運動もそれらしい運動はなかなかできていないのが実際です。ですが、まだ身体は動きますし、目も老眼はきていません。大病もせず「がん」にもなっていません(ここしばらく毎年PET検査を受けています(笑))

今2000年のころに戻ると当時の100%ではないですが、90%はできる自身があります。揺り戻しがあったとしても耐えられる状態を作ってきたと思っていますから。

ですので、時代がどう変わろうとも『自分の中の基準』は下げてはいけないと思っています。なぜなら「厳しい」方に戻った時、楽に慣れてしまえば、世間の変化についていけなくなるからです。

若い人はまだ対応ができるかもしれません。
ですが『25年前の働き方』を知らない若い世代の人たちが、僕らおっさんから『もっとシャカリキに働いた方がいいよ』と言われても「老害がしんどい働き方を強要してくる」としか思えないでしょうし、そんな話を素直に聞けというのは無理でしょう。

実際僕らも若いときにはおっさんから無茶を言われ「そんなのは何十年前の話ですか、全く…」と心の中で絶叫していましたから。

また、仮に若い方々が聞き入れてくれたとしても、「何をどれぐらいやったらいいか分からない」以上、基準は「自分なりにやった」になり、結局は必要な基準に達せない可能性も高いです。

必要な基準に達することができる若手世代というのは、「世の中がシャカリキに働くのが『当たり前』になった後の人たち」だけだ。

それは「ゆとりに慣らされた世代」が「ゆとり終了直後から、それ以前の学習に戻る」というのが容易ではないのと同じです。

今後の時代では、第三者から個々人の働き方や生き方への細かな干渉……というのは確実に減っていくでしょう。

その結果として仮に「働き方の揺り戻し」がおこった時も、周りは『あーしろ』『こーしろ』というのは言わないと思います。なぜならそれを言うことが『その人への過負荷を強いる』ことになり「その結果の異常の責任が取れない」から。

となると、生き残るには『自分で自分に、楽ではなく、潰れることのない自分にとって適切な負荷をかける』ことになります。その負荷をかけるかかけないかは完全な自己責任。

安穏と生きていても誰も困りませんが、本人は「給料が物価上昇に耐えられないほど上がらない」「欲しい報酬が得られない」ということになるかもしれません。(もちろんそれでも良い価値観の人もいるので、自身が納得できているならば必ずしも給料が上がらないことは悪ではありません。)

ですが、大変なのは「安穏とした状態に慣れてしまい、シャカリキに働こうと思っているのに、気力も体力も落ち切ってしまい、今さらどうやっても戻れない」人だ。

40歳後半以降ぐらいで、今からシャカリキに頭も身体もフル回転で働かなきゃいけなくなった時についてこられないで脱落する人が多数出てきてしまうのではないかと感じています。

しかし社会は優勝劣敗、適者生存なので、適応できないと一定のラインからは撤退するしかなくなってしまいます。

だからこそ生き残れるように爪を研いでおく必要があると感じています。

今回の自民党新総裁の言葉が発せられたことで感じている時代の転換点と揺り戻しが起こったときに耐えられる自分でいるか?と考えていたことが現実になったかも……と思っていることを文字にしてみました。


名村晋治のプロフィール

Webディレクター 名村晋治

株式会社サービシンク

代表取締役 / テクニカルディレクター

名村晋治

1996年よりWeb制作に携わり、キャリア30年目のWebディレクター

2010年に不動産業界特化のWeb制作会社「サービシンク」を設立して、今も現場でディレクターとしてPMをしています。

詳しいプロフィール

大学在学中の1996年「Web制作集団ネイムヴィレッジ」を設立し100社を超えるサイト制作の企画、ディレクション、デザイン、マークアップ、システム開発に携わる。

2000年不動産検索サイトHOME'Sを運営している株式会社LIFULL(旧:ネクスト)に合流。
2005年からは都内のWeb制作会社に合流し取締役を歴任。同社ではフロント実装からディレクションまでを担当。

2010年東京のWeb制作会社・ホームページ制作会社、株式会社サービシンクを立ち上げる。 不動産業界に特化したサイト制作の、アートディレクション~HTML実装設計~システム設計のすべてに携わるジェネラリスト。基軸としてはクライアントの商売に寄り添う為に、徹底的に思考を巡らせる為のディレクションを行う。

Webブランディングの入門教科書」、「変革期のウェブ」を「マイナビ出版」から出版。

2000年から「Webディレクター育成講座」を独自開催し、40時間のカリキュラムを通し「仕事を回す事ができる」Webディレクター育成手法には定評があり。
首都圏のみならず地方でも講座実施、参加者は延べ700人を超える。 もう一つのキャリアとしてプロとして舞台俳優、声優。 1996年から養成所に通い始め2004年に廃業するまでの間はWebディレクターと二足のわらじでの活動。

俳優としては、東京の小劇場でシェイクスピアやマリヴォーといった古典を中心に舞台に出演、また声優としては大きく活躍できる程ではありませんでしたが、NHK海外ドラマや、洋画等、ゲームでの声優を行っていました。

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