大学生時代の時間の過ごし方は幸せだったのでは?
2013年05月31日
先日車に夜乗っていて信号待ちしてた時、前の横断歩道をサラリーマンが通り過ぎました。
降ってるのか降ってないのか分からない程度の雨の中、スラックスでシャツを着てるのに、ウエストバックを肩から掛けて、でもジャケットを持って無かったので、何となく気になったんです。
その彼は横断歩道を渡る間中、スマホをいじってました。
それを見てなぜか自分の学生時代を思い出しました。
スマホ、携帯がない時代、帰り道はどうしてただろう?
名村は今年38歳ですが、丁度学生時代の20歳ごろに携帯が出てきました。
その頃は当然単体でネットなんて見られません。
そもそもWebを見ている人自体が今に比べれば圧倒的に少なかった。
そんな時代、例えばバイトの帰り道、友達と別れたあと、どういう帰路だったか?と思ったんです。
- 多分音楽を聞いてた。
- 明るければ本を読んでいた。
- また、ぼーっとほとんど何も考えず歩いてた。
これって今考えるとかなり面白かったなぁ、と思うわけです。
あっ、「昔は幸せだった」とかって言って懐古趣味に走るほどはまだ歳とってません(←あんまり変わらないかもしれないけど、「昔のが良かった」→「昔に戻りたい」的な感情がない、という意味で。笑)
どういう風に楽しかったのか?
多分時間の使い方が贅沢だったんだと思います。
まぁ、当時は名村も大学生だったので、時間だけは「バブル真っ最中!」なぐらい自由な時間があったわけですが、何というか、一つ一つ目の前にくることにしっかりと時間を使えててた、使ってた気がするんです。
もちろん今ほど色々と考えることが多かったわけではなく、目の前のことをこなしていく事が全てといっても過言ではなかったとおもいます。
でも実際に学生時代にやっていたことをいざ文字にしてみて、しかもそれを今の若い子達が見たら、こう思うのかもしれません。
「歩いてる時に『音楽を聞いたり』『本を読んだり』してるんだったら、今スマホで音楽聞きながらWeb見るのと、何が違うん?」
確かにそう言われるとそうなんです。
じゃぁ、何が違うんだろ?
選択できる情報の種類の多さが爆発的に増えた
と考えると、確か何かで「現代人が1日に受け取る情報の量は、江戸時代の人の1生分に匹敵する」というのを読んだことがあります。
それはこの数年の間でも更にどんどん増えていっていて、今となってはその瞬間瞬間に選択出来る情報量が爆発的に増えた、ということなんだと思います。
だって、店に入ったとしても、
メニューを見る
foursquareでチェックインする?
Facebookでチェックインして写真とって食べてるところアップする?
あっ、Twitterにも上げなきゃ。
写真撮ったし、instagramにもアップするか・・・。
この場所ってRettyで誰か書いてるかな?
おっ、そうこうしたらFacebookで「いいね」がついてるから見てみよう。
TiwtterとかFacebookで面白い記事上げている人がいるから、その先を見てみよう。
ということを考える訳です(笑)
・・・・あれ?名村だけ?
いやいや、ここを見ている人だったら、これぐらいのことやってますよね?(^_^;)
それぞれは楽しい側面もあるのですが、やることが多すぎて「一つ一つの事に時間をかけて判断していく、楽しんでやっていく」事を希薄にさせている感覚につながっているような気がします。
それを捌くときに、人は何を得て何を失うんだろ?
歳とったおっさんみたいな内容になってきてるな(笑)
閑話休題。
このエントリーに思い至ったのは冒頭の車に乗っている時なんですが、その時車で自分のiPhoneの音楽を飛ばして流していたのですが、
あっ、この曲学生の時に聞いた曲だ。あー、あの道歩きながら聞いたよなぁ・・・。
と、音楽に対して(NLPでいうところの)アンカリングの光景を思い出したんです。
でも、そこで
あれ?最近の曲に対して「この場所」とか「この時の光景」とかってあんまり思い出すものがないなぁ・・・。
なんでやろ?
となって、色々頭であーだこーだ考えていたというわけです。
それは多分音楽も完全に「音」として「消費」をしてしまっていて「音を楽しむ」ことが出来ていないからなのかも・・・と思って、上の話の思い至った訳です。
ということで、だからどうする的なものは一切なく、関西で言うところの「オチが無い」話なのですが、夜中に考えてたことの発散でした。