「努力は無駄」「才能が全て」と思っているあなたへ。必要なのは努力・才能・運の3つ、そして「行動」
「努力しても意味がないんじゃないか」 「結局、才能がある人が勝つんでしょ」 「じゃあ才能がない自分はどうしたらいいの?」
そう思ってこの記事にたどり着いた方に向けて書いています。
僕は1996年からWeb制作・Webシステム開発の仕事をしていて、いまはWeb制作会社の経営者兼プロジェクトマネージャーです。その立場から、自分自身の「才能がなかったこと」と「あったかもしれないこと」も含めて、正直に書いてみたいと思います。
きっかけは、将棋棋士・渡辺明九段の「僕は将棋の天才です」という文章
X(旧Twitter)で、将棋の渡辺明九段のものとして知られる文章が話題になっていました。要旨はこういうものです。
初めて竜王になった頃は「自分がここまで来られたのは誰よりも努力したからだ。他の人は努力していないだけだ」と思っていた
しかし自分の息子に将棋を教えてみたら、昔の自分が簡単にできたことが息子には全然できなかった
そこで初めて「自分には将棋の才能があったのだ」と気づいた
努力を続ければ誰でも上達する。だが上達スピードは人によって違い、一生努力してもプロレベルに届かない人もいる
息子にはサッカーをやらせている。才能があるかは分からないが、才能がなくても、続けるのが楽しいと思えるものがあればそれでいい
この文章に対して、ある方がこんなコメントを添えて引用していました。
言いたいことは分かります。分かるのですが、この引用だけを根拠に「努力は無関係で、才能が全てだ」という論調として紹介するのは違うと思ったので、この記事を書いています。
渡辺九段の話は「才能の話」であると同時に「運の話」でもある
渡辺九段は、かなり早い段階で将棋に出会い、そしてそれが自分の才能に合致していました。
つまり、たまたま短い接触回数で、自分の才能に合致するものに出会えたわけです。そういう意味では、これはもはや「運」の話ではないでしょうか。だから本当に難しいのは、「才能があるかどうか」ではありません。
「自分には何の才能があるのかを、どうやったら見つけられるか?」
こちらのほうが、はるかに難しい問いです。
ちなみに「誰しも何かしらの才能がある」とよく言われますが、極論すると僕はこれすらも正しいのかどうか分からないと思っています。
そもそも「才能がある」とは、どういう状態を指すのか
「才能がある」と判断する基準そのものが、実はとても曖昧です。少なくとも次のような問いに、はっきり答えられる人は少ないと思います。
自分が苦にせずやり続けられることが才能なのか?
苦労を感じずやっているのに、世間で認められることが才能なのか?
他者よりも苦労を感じずに、期待した報酬を得られることが才能なのか?
そして、いつそれを実感できたら「自分にはこれの才能がある」と言えるのか?
最後の問いはけっこう重要です。仮に死ぬ直前に「自分にはこの才能があった」と実感できたとして、それは本人にとって良いことなのか、という話になるからです。
「才能を見つける」と言うとき、僕たちは無意識に「若いうちに見つける」ことを前提にしています。でも、その前提自体がかなり都合のいいものです。
実際先ほどのXの投稿の対してのリプライの中でも「人より勝てないものを努力し続けるのは無理かと思います」という記述がありますが、ではどうやれば「この先、これを続けても人には勝てない」というのが分かるのでしょうか…?
残酷な話:才能があっても、報酬に直結するとは限らない
もう一つ、資本主義的な観点から言っておかなければならない残酷な事実があります。
「才能がある」ことや「才能を活かした生き方」をすることと、それに対して「潤沢な報酬を得られる」ことはイコールではありません。
才能があって、やり続けられて、人よりも圧倒的なパフォーマンスを出せる。それでも、
その仕事自体がそのタイイングでは世間でのニーズが低いもの
仕組み上、報酬が上がらない業態
などに当てはまってしまえば、報酬は絶対に上がりません。
「好きなことで生きていく」も「才能を活かす」も、報酬とは別のレイヤーの話です。ここを混ぜて語る記事や動画が多すぎるので、僕はこの論調にはずっと違和感を感じていました。
「努力できるのも才能」という言葉は、なぜ循環論法なのか
この手の話になると「努力ができるのも才能だ」「そもそも努力できることが才能だ」と言う人がいます。一見もっともらしいのですが、よく考えるとこれは循環している話です。
努力は、自分に合うものに対してできる。 つまり、自分に合うものを見つけられたから、努力ができている。
だとすると「努力ができる=才能」という話は、結局「自分に合うものを見つけられた=運と才能」という最初の話に戻ってきてしまいます。
「あの人は何でも努力できる」は、外から見た錯覚
さらに言えば、努力できるもののストライクゾーンの大きさは人によって違います。
ストライクゾーンが広い人は、たしかにいろいろなことに打ち込めますし、周りも「なんでも努力できる人だ」と感じます。ですが、それはその本人にすれば、自分のストライクゾーンに入っているものだけを選んで努力しているだけです。
それを外野から見て「あの人は何でも努力できる才能がある」と言うのはナンセンスです。自分との比較で、自分よりストライクゾーンが広い人は外部から見ると「何でもすごい人」に見えているだけなのです。
若いうちに才能に出会う確率を上げるには、どうすればいいのか
では、どうすれば「自分に何の才能があるか」に早く出会えるのか。
僕は、次の2つが重なったときに初めて、その可能性が上がると思っています。
親が、子どもがどう思おうと、半ば強制的にでもたくさんの種類の経験をさせる
子ども自身が、とりあえずやってみる
この両方が揃って、ようやく「自分にはこれに才能がある」と思えるものに出会える確率が上がります。どちらか片方では足りません。
ただ「親が…」の下りには異論反論があるとは思います。子どもは親のおもちゃじゃないので押し付けるべきではない、という話題です。ただ、何かの事象に対しての判断力は知識と経験によって可能になります。ガチの第六感ではない限り「勘」も知識と経験による瞬間的な是非の判断です。では、その「知識と経験がない」子どもの時期に子どもの意思に判断を任せて、その子は自分の知識外の経験を得られるだろうか?と思っています。
仮に「プールで泳ぐ」という概念を知らない子が、どこからも情報を得ることなく「泳ぎを学びたい」と思えるのか?と感じるのです。そこは親、もしくは先達が、その人の価値観の押し付けという側面はあるが、「やらせてみる」というところから始まるのではないでしょうか。
そもそも価値観の押し付けを完全に排除するのは不可能です。学校一つとっても、国によって何を正しいとするかが違うので、その時点で「日本という国の教育方針を押し付けている」とも言えます。ですので、基本的には育成の過程とは価値観の押し付けにならざるを得ないと思っています。
話を戻して、その意味では僕は子どもが「何が自分には適しているのか?」を知る機会として、「自分の知識では知らなかった正解を知る」ためには、子どもファーストインプレッションでは「これは何となく嫌だ…」と思うことでも「数回、十数回やってみてごらん」ということを半強制的に機会を与えることで「あれ、やってみたら面白いかも?」と思えるかもしれない「可能性」を提供することが重要と思っています。
しばらくしてやっぱり合わなければ辞めればいいし、その面白さを実感できるのがある年齢を超えてから…という人もいるでしょう。
それほど「自分に会うものを見つけられる」のは難しいと思っています。
ただし、子どもの頃に出会えるものには限界がある
現実には、子どもの頃に出会える選択肢の多くは「習い事」系です。キッザニアのような場所で職業的な才能を見つけられる可能性もありますが、それを理解した上で子どもを連れて行っている親は、分母から考えれば多くありません。
つまり、そもそも出会える選択肢の母数が、生まれた環境によってまったく違うということです。
才能を「見つけた」と言える条件は、かなり厳しい
仮に「才能がある」を、
仕事にすることができて
人より努力ができて、しかもそのことに人より苦労耐性があり
報酬を人並み以上に得られ
それを若いうちに実感できる
と定義するなら、それを見つけるのは、そもそも至難の業です。
僕自身の話:才能がなかったこと、あったかもしれないこと
ここからは自分の話です。抽象論だけでは伝わらないと思うので、正直に書いてみたいと思います。
声の仕事には、絶望的に才能がなかった
僕は以前、声の仕事を目指していてちゃんとお仕事もさせてもらえるところまではいけました。しかし結論から言うと、絶望的に「演技」の才能はありませんでした。
少なくとも、自分で決めたデッドラインである30歳になるまでに、開花も発揮もさせられませんでした。頑張って続けていれば遅咲きの可能性はゼロではありませんが、それは前述した「いつまでに才能に気づけるか?」という問いに戻る話です。
そして今なら分かります。養成所時代、訓練に時間を費やすことは、今のWebの仕事に時間を費やすことに比べて、はるかに負荷が高かったんです。
つまり「努力をすることに抵抗がある」状態だったわけです。だから僕には声の仕事の才能がなかったのだ、と実感を持って言えます。
Webディレクターには、たぶん才能がある方向だった
一方でWebディレクターという仕事は、僕にとっておそらく才能がある方向だったんじゃないかと…うっすら感じます。
それは、今やっていることに対して、稼働時間も含めて「苦労だ」と思ったことがほとんどないからです。マクロ的な視点ではずっと楽しんで仕事をやれています。
もちろん、立場上として謝罪に行くとか、お金が絡む揉め事は「やだなー」と思いますし、胃が痛くなるぐらいにはストレスは高いですよ(笑)でもそれは「と言っても、ゼロにすることはできない要素だしな」で納得ができる。その程度の負荷なのです。
ただし、同じWebの仕事でもデザインやコーディング、エンジニアリングの才能は、これまた絶望的にありません。だから僕はWebディレクターをしているともいえます。
僕の才能は「ひらめき」でも「センス」でもなく、心身の頑丈さです
もうひとつ、自分の才能だと自覚していることがあります。
親がそもそも体を丈夫に産んでくれたこと。そして高校時代まで、自分で選んだ運動部で体力的な部分をとことん鍛えられたこと。特に「走る」ということに対しては自信の肉体的な適正もあったとは思いますが、本当に良く走りました。高校時代は卓球部だったのですが、アップで8キロ〜10キロ走らされ、それが「アップ」としてできるぐらいの体力が必要な部でした。
そのことが今の身体の状態を作っています。これも運であり、才能だと思っています。だから僕は、自分のワークスタイルを「自分の才能を使ってやっている」と自覚しています。
ただしそれは「ひらめき」とか「センス」とかとは程遠いものです。
心身の頑丈さによってなしえられる、人より圧倒的な稼働時間を費やし、得られた経験の量で仕事をする
これが僕の才能の中身です。
なので実は、僕は「時間をかければ誰でもできること」しかしていません。
その証拠に、僕は20代、30代の頃なんて、ろくに仕事ができませんでした。経験の量でしか勝負していないのだから、経験がない年代では仕事ができなくて当然です。逆に言えば、僕の場合は「その経験量を積める心身の堅牢さ」こそが才能だった、ということになります。
そして最近になってやっと、今の仕事に対して「才能があったかも?」と思えるようになりました。
ただし同時に、「才能があるかも?」と感じているこの仕事ですら僕が得られる報酬は、あえて同じ「IT系」と括らせてもらえるならば、孫正義さんや堀江貴文さんのようなレベルではないことも実感しています。才能があることと、得られる報酬の大きさは、やはり別の話なのです。
6年続けているポッドキャストで気づいたこと
僕は6年ほど、毎週30分のポッドキャストをしています。
いただいたハガキのネタだけで30分、台本なしの一発収録で喋っているのですが、これが他の人にとっては結構難しいことである、というのが最近になって分かりました。
僕はお芝居・演技は絶望的に無能ですが、フリートークであれば——プロのパーソナリティやタレントさんとは比べるべくもないレベルですが——それでも「苦を感じずできる」。これも僕の才能なのかもしれません。
ただ、僕のこの「喋るスキル」も、少なくとも僕はマネタイズできていません。
これこそが「才能があるから稼げる」わけではない、という一つの証拠だよなぁ、と思っています。
結論:努力も才能も運も全部正しくて、全部必要です
何をもって「才能がある」「努力をしている」「運がある」と言うのかは、主観が大きく関わる話です。
だから、
「努力をしたからだ」も正しい
「才能があったからだ」も正しい
「それを見つけられた運があったからだ」も正しい
全部正しいし、全部必要です。「努力か才能か」という単純な二元論で語ること自体が、そもそもナンセンスなのです。「全ては才能だから努力は無意味」という論調になることに違和感を感じた理由がそれです。
けれど一つだけ言えることがあります。
努力も、才能も、運も、どれであっても、自分が何かしらの行動と選択をしなければ得られません。
椅子に座って待っていても、きっかけは絶対来ません。 ノウハウ本やXでそれっぽい成功体験を読んで、知識だけを増やし頭でっかちになっても、きっかけは永遠に来ません。
自分に何がマッチするのかを見つける、具体的な行動をした人だけが才能に出会えるのだと思っています。ですので、行動に移さない限りは才能の有無も、努力できるかどうかも、運がくるのかも分からないままになると考えています。
ただその「行動できるのも才能だよ」と言ってしまえばそのとおりかもしれません。ただその「◯◯も才能だよ、自分にはそれがないから困ってるんだ」という方は、正論でも正解ではないので、誰も助けてくれないままになるとは思います。
よくある疑問に答えます
Q. 努力は無駄ですか?
無駄ではありません。ただし「自分に合っていないもの」に対する努力は、極端に負荷が高くなります。僕が声の仕事の訓練で感じたのがまさにそれでした。努力そのものより先に、「努力の負荷が低い領域はどこか」を探すほうが先です。
Q. 結局、才能が全てなんですか?
違います。才能があっても、努力を積まなければトップにはなれませんし、才能に出会えるかどうかは運の要素が大きい。そして才能があっても、市場のニーズや業態の構造によっては報酬に結びつきません。才能は必要条件の一つであって、十分条件ではありません。
Q. 自分の才能の見つけ方が分かりません。どうしたらいいですか?
判断材料としておすすめできるのは、「苦労と感じずに時間を費やせるかどうか」です。成果や評価より先に、負荷の低さを見てください。そして、それを知るには実際にやってみるしかありません。候補に触れる回数と種類を増やすこと以外に、確率を上げる方法はないと思っています。
Q. 才能がなかったら、その分野は諦めるべきですか?
必ずしもそうではありません。渡辺九段も書いているとおり、才能がなくても「続けるのが楽しい」と思えることには意味があります。ただし、それを仕事にして報酬を得たいのであれば、才能の有無と市場性の両方を冷静に見る必要があります。楽しむことと、それで生活することは、分けて考えてください。